「人的資本経営の重要性は痛いほど理解しているが、情報開示のためだけの形式的な取り組みに陥っていないか?」「結局、何から手をつければ、本当に企業価値向上に結びつくのか?」――これは、私たちが日々対話する多くの経営者や人事責任者の皆様が抱える、切実な悩みです。
本記事は、数多くの企業の経営・組織課題に向き合ってきたデロイト トーマツ ヒューマンリソースの知見を結集し、人的資本経営を成功に導くための本質と実践論を、余すところなく解説します。
単なる定義の解説ではありません。経営戦略との連動を核とした実践ロードマップ、投資家や従業員を納得させるKPIの設計思想、そして表面的な成功談ではない事例の裏側にある「成功のポイント」まで、一歩も二歩も踏み込んで解き明かします。企業の未来を創る、本質的な一手に関心のある方はぜひご一読ください。
デロイト トーマツ ヒューマンリソース
人的資本経営とは何か? なぜ今、“経営”アジェンダなのか
人的資本経営とは、従業員を「コスト」ではなく、将来の価値を創出する「資本」と捉え、育成や経験への投資を通じてその価値を最大化し、中長期的な企業価値向上につなげる経営手法のことです。
従来の人材マネジメントとの決定的な違い
従来の人材マネジメント(Human Resource Management)と人的資本経営(Human Capital Management)は、似て非なる概念です。その決定的な違いは、人材を「管理対象」と見るか、「価値創造のパートナー」と見るかの視点の違いにあります。以下の表で、両者の視点の違いを整理します。
| 視点 | 従来の人材マネジメント | 人的資本経営 |
|---|---|---|
| 人材観 | 管理・最適化すべき「コスト」「資源」 | 投資し、価値を最大化すべき「資本」 |
| 戦略との関係性 | 経営戦略に従属する「実行部隊」 | 経営戦略と一体・不可分な「中核」 |
| 主な目的 | 業務の効率化・コスト最適化 | 中長期的な企業価値の持続的向上 |
| 人事部の役割 | 管理・オペレーションが中心 | 経営の戦略パートナー |
このように、人的資本経営は、人材への戦略的投資こそが将来の企業価値向上に直結するという強い信念に基づきます。だからこそ、人材戦略は事業戦略と対等、あるいは先行する形で構想されなければなりません。「どのような企業を目指すのか(経営戦略)」と「そのために、どのような人材ポートフォリオを構築し、彼らの能力をいかに最大限引き出すか(人材戦略)」を一体で構想する点こそが、本質的な違いです。
なぜ今、“経営”アジェンダなのか?無視できないマクロトレンド
人的資本経営が単なる人事部のテーマではなく、経営トップが取り組むべき最重要アジェンダとなった背景には、無視できない3つの大きな世界的潮流があります。
ESG投資の潮流と「情報開示義務化」のインパクト
ESG投資が主流となる中、投資家は企業の非財務情報、とりわけ「S(社会)」の中核をなす人的資本に、厳しい評価の目を向けています。
これは単なる努力目標ではありません。特に、2023年3月期決算から、上場企業には有価証券報告書における人的資本に関する「情報開示が義務化」されました。「人を大切にしない企業に、持続的な成長はない」という明確なメッセージが、制度として具体化したのです。
もはや、人的資本戦略は単なる社内向けの取り組みではなく、投資家との対話を通じて企業価値を論理的に示すための、経営の根幹をなすテーマとなったのです。
DX時代における、事業と人材の非連続な変革
デジタル技術によって既存のビジネスモデルが根底から覆される現代において、企業が生き残るには、新たな価値を創造できるデジタル人材や、変革をリードする人材が不可欠です。昨日までの成功を支えた人材構成が、明日には成長の足枷になりかねません。戦略的なリスキリングやアップスキリングを断行し、未来の事業戦略から逆算した人材ポートフォリオへと変革することが急務です。
「個」の価値観の変化と、激化するタレント獲得競争
終身雇用が過去のものとなった今、優秀な人材ほど、金銭的報酬だけでなく、自己成長の機会、働きがい、企業の存在意義(パーパス)への共感を求めます。従業員一人ひとりが「この会社で働き続けたい」と心から思える状態(高いエンゲージメント)を創出できなければ、優秀な人材から静かに見切りをつけられ、組織の活力は確実に失われます。
人的資本経営が企業価値を高める3つのインパクト
人的資本経営は、単なる社会貢献やコストのかかる福利厚生ではありません。企業の持続的成長を支える、明確な価値創造のメカニズムが存在します。具体的には、以下の3つの側面から企業価値向上にインパクトを与えます。
財務的価値へのインパクト:生産性向上とイノベーション創出
従業員のスキルアップやエンゲージメント向上への投資は、巡り巡って売上や利益に直結します。例えば、戦略的な研修は個々の生産性を高め、エンゲージメントの高い従業員は顧客への提供価値を高めます。さらに重要なのがイノベーションの創出です。多様な人材が心理的安全性の高い環境で自由に議論できる組織風土は、新たな事業の種を生む土壌となり、模倣困難な競争優位性を築き上げます。
非財務的価値へのインパクト:ブランド価値と採用競争力の強化
「人を大切にする企業」という評判は、強力な無形資産です。その姿勢は顧客からの信頼を高め、ブランドイメージを向上させます。そして、最も直接的な効果が現れるのが採用市場です。特に、将来を担う優秀な人材は、企業のパーパスや自身の成長機会、組織文化をシビアに見極めています。魅力的な人的資本経営を実践・発信できる企業は、人材獲得競争において圧倒的に有利なポジションを築きます。
持続的成長へのインパクト:組織のレジリエンス(変化対応力)強化
市場環境が激変するVUCAの時代において、企業の存続を左右するのが「レジリエンス(変化対応力)」です。自律的に学ぶ文化が根付いた組織は、事業構造の転換にも迅速に対応できます。多様な視点を持つ組織は、予期せぬ危機にもしなやかに対応できます。人的資本経営とは、いわば、不確実な未来に対する最も有効な「保険」であり、変化を脅威ではなく機会として捉えるための戦略的投資なのです。
【最重要】人的資本経営 実践ロードマップ5ステップ

人的資本経営を「絵に描いた餅」で終わらせないためには、経営戦略と完全に連動した、以下の体系的な5ステップのアプローチが不可欠です。
【STEP1 | 羅針盤の設定】パーパス・経営戦略を起点に、「あるべき人材像」を定義する
すべての出発点は、自社が「どこへ向かうのか(ビジョン・経営戦略)」を明確にすることです。その上で、経営戦略を実現した3〜5年後の未来から逆算し、その時、各事業を牽引しているのはどのようなスキル・マインドセットを持つ人材か、解像度高く描き出します。「グローバル売上比率50%」という戦略なら、「異文化環境で成果を出せるリーダーが〇名必要」というレベルまで具体化することが必須です。
【STEP2 | 現在地の把握】データに基づき、現状(As-Is)を可視化・ギャップを特定する
次に、ステップ1で定義した「あるべき姿(To-Be)」と「現状(As-Is)」のギャップを、思い込みや感覚ではなく、客観的なデータで把握します。国際的なガイドラインである「ISO30414」などを参考に、従業員数や離職率といった基本データに加え、エンゲージメントスコア、スキルマップ、後継者充足率など、多角的なデータを収集・分析します。これにより「〇〇スキルを持つ人材が△△名不足している」といった具体的なギャップが白日の下に晒されます。
【STEP3 | 優先順位の決定】経営インパクトの大きい重要課題(マテリアリティ)を特定し、KPIを設定する
特定された全てのギャップに一度に取り組むことは不可能です。これは経営判断そのものです。経営戦略の実現に対して最もボトルネックとなっている課題(マテリアリティ)は何かを、経営陣が真剣に議論し、優先順位を決定します。そして、その課題の解決度合いを測るための重要業績評価指標(KPI)を設定します。「何を測るか」は「何を重視するか」を組織に示す強力なメッセージとなるため、極めて慎重な設定が求められます。
【STEP4 | 打ち手の策定・実行】課題解決のための「施策ポートフォリオ」を構築・実行する
重要課題とKPIが定まったら、具体的な施策を実行します。重要なのは、採用、育成、配置、評価といった人事施策がバラバラに動くのではなく、すべてがKPI達成という共通目的に向かって連動する「ポートフォリオ」として設計されることです。例えば、KPIが「デジタル人材比率の向上」なら、「採用(中途強化)」「育成(リスキリング)」「配置(戦略的異動)」「評価(スキル習得の評価)」といった施策群が一体となって初めて、組織は大きく変革します。
【STEP5 | 改善と対話】モニタリングと、ステークホルダーへの効果的な情報開示
施策は実行して終わりではありません。設定したKPIを定期的にモニタリングし、施策の効果を検証します。効果が出ていなければ、迅速に原因を分析し、施策を修正するPDCAサイクルを回し続けます。そして、この一連の取り組みの進捗と成果は、投資家や顧客、従業員といったステークホルダーに積極的に開示します。情報開示は、自社の取り組みへのフィードバックを得て、さらなる改善に繋げるための貴重なコミュニケーション機会です。
デロイト トーマツ ヒューマンリソース
投資家を納得させるKPI設定と情報開示
人的資本経営の実践において、KPI設定と情報開示は車の両輪です。自社の取り組みを客観的に評価し、社内外のステークホルダーとの対話を深める上で、これらは不可欠の要素となります。
義務化された「守りの開示」と、企業価値を語る「攻めの開示」
2023年3月期決算より、有価証券報告書において「人材育成方針」「社内環境整備方針」および多様性に関する指標(女性管理職比率、男性育休取得率、男女間賃金格差)の開示が義務化されました。これらは最低限果たすべき「守りの開示」です。
しかし、真に企業価値向上を目指すのであれば、これらに加え、自社の経営戦略と深く結びついた独自のKPIを「攻めの開示」として設定し、その背景にある価値創造ストーリーを発信することが決定的に重要です。「なぜ当社にとって、この指標が重要なのか」を語ることではじめて、投資家や未来の従業員の共感を得られるのです。
自社の戦略に合わせたKPI設定の考え方【分野別 具体例】
効果的なKPIは、他社の模倣では生まれません。自社の重要課題に直結し、「なぜこの指標が重要なのか」というストーリーを語れるものを選び抜く必要があります。以下の表は、分野別のKPI設定例です。自社の戦略と結びつけてカスタマイズすることで、全社的な取り組みをドライブすることが可能になります。
| 分野 | KPIの具体例 | 紐づく価値創造ストーリー(例) |
|---|---|---|
| 育成 | 従業員一人当たりの研修費用、戦略的重要スキル保有者比率 | 事業ポートフォリオ転換のため、次世代事業に必要なスキルへの投資を強化している。 |
| エンゲージメント | 従業員エンゲージメントサーベイスコア(eNPSなど)、従業員定着率 | 従業員の働きがいが顧客提供価値とイノベーションに直結すると考えている。 |
| 多様性 | 女性/外国人管理職比率、男女間の賃金格差、育休取得率 | 多様な視点を取り入れた意思決定が、グローバル市場での競争優位性を生む。 |
| 健康・安全 | 労働災害度数率、メンタルヘルス不調による休職者率 | 従業員の心身の健康が、持続的な生産性と創造性の基盤である。 |
| 採用 | 採用競争率(応募者数/採用者数)、重要ポジションの充足率 | 未来の成長を担う重要ポジションに、最高のタレントを惹きつけられているか。 |
【戦略パターン別】先進事例から学ぶ、自社に最適な「次の一手」の見つけ方
他社の成功事例をそのまま模倣しても意味がありません。自社の経営課題と戦略の文脈に合わせ、最適な打ち手を選択することが肝要です。ここでは代表的な3つの戦略パターンを解説します。自社がどのパターンに近いか、考えながらお読みください。
パターン1:事業変革(DX)と連動した「人材ポートフォリオ転換」
典型的な課題
既存事業が成熟し、DXによる新規事業創出が急務だが、新事業に必要なスキルを持つ人材が社内に圧倒的に不足している。
成功のポイント
リスキリング、キャリア採用、配置転換、評価制度をパッケージで断行すること。経営戦略で描いた未来の事業ポートフォリオと、それを実現する人材ポートフォリオのギャップを数字で示し、そこを埋めるための投資を集中させます。
パターン2:グローバル化・多様性推進を起点とした「イノベーション創出」
典型的な課題
グローバル市場を目指すが、意思決定層が同質的で、多様な顧客ニーズを捉えきれずに製品開発が停滞している。
成功のポイント
D&IをCSRではなく、イノベーション創出のエンジンと明確に位置づけること。「女性管理職比率〇%」といった挑戦的なKPIを設定し、その達成に向けてサクセッションプランの見直しなどを本気で断行します。多様な人材を「集める」だけでなく、能力を「活かせる」心理的安全性の高い文化醸成が鍵です。
パターン3:独自の企業文化(バリュー)を求心力とした「エンゲージメント向上」
典型的な課題
組織の急拡大や環境変化の中で、競争力の源泉である「独自の価値観(バリュー)」が薄まることに危機感を抱いている。
成功のポイント
抽象的な「企業文化」を人的資本として再定義し、採用・評価・昇進など、あらゆる人事施策の判断軸に据えること。最も強力な打ち手は、経営トップ自らが「語り部」となり、バリューを体現した社員のストーリーを繰り返し語り続けることです。これにより、バリューが全社員の「自分ごと」となり、組織の強固な求心力となります。
9割が陥る失敗とは?人事部マターで終わらせないための鉄則
多くの企業が人的資本経営の重要性を認識しながら、変革に至らないのはなぜか。コンサルティングの現場で見る「陥りがちな失敗」と、それを乗り越えるための「鉄則」を以下の通り対比形式で解説します。
| 比較テーマ | 陥りがちな失敗 | 成功への鉄則(対策) |
|---|---|---|
| 経営層のコミットメント | ① 「人材は宝だ」と唱えるだけで、予算はつけない経営層。結果、人事部に丸投げ。 | ① 経営トップの「本気度」を具体的な行動で可vis化する(経営会議での筆頭アジェンダ化、重要人事への直接関与など)。 |
| 現場管理職の巻き込み | ② 人事部が作った立派な制度が、現場の管理職に「また新しい仕事が…」と無視される。 | ② 現場の管理職を「実行の主役」として巻き込む(企画への参画、ピープルマネジメントを評価に直結させる)。 |
| 従業員への浸透 | ③ ロジックだけの無味乾燥な説明で、一般従業員に「自分には関係ない」と思われる。 | ③ 会社の未来と個人の成長を繋ぐ、感情に訴える「ナラティブ(物語)」を構築し、発信する。 |
経営トップの「本気度」を具体的な行動で可視化する
最もよくある失敗は、人的資本経営が「人事部の取り組み」で終わることです。これを防ぐには、経営トップのコミットメントが不可欠です。トップ自らが、自社のパーパスや経営戦略と人的資本経営の繋がりを、情熱を持って語り続けること。そして、経営会議の最初のアジェンダに必ず「人的資本」に関する進捗報告を組み込む、後継者計画に自ら時間を割くといった具体的な行動で、「これは最重要課題なのだ」という強力なメッセージを組織全体に発信します。
現場の管理職を「実行の主役」として巻き込む
人事部がどれだけ優れた制度を企画しても、実行の主役は現場の管理職です。彼らを「変革のパートナー」として巻き込むことが成功の鍵となります。施策の企画段階から彼らの意見を吸い上げ、現場の実情に合った制度を共に考えるプロセスが重要です。そして、部下の育成やエンゲージメント向上が、管理職自身の評価とチームの成果に直結する仕組みを導入することで、初めて本気で部下と向き合うようになります。
全社を巻き込むナラティブ(物語)を構築する
「人的資本」や「KPI」といった言葉は、現場の従業員には響きません。全社的なムーブメントを創り出すには、ロジックだけでなく、感情に訴えかける「ナラティブ(物語)」が必要です。「私たちの会社は、こういう未来を目指している。その壮大な旅路において、皆さん一人ひとりの成長と挑戦が不可欠であり、会社はそのために全力で投資を惜しまない」――。このような会社の未来と個人の成長が重なるストーリーを語り続けることで、従業員は自らを物語の主人公と感じ、組織は内側から変わり始めます。
まとめ:人的資本経営とは、企業の未来そのものを構想する経営戦略である
本記事で解説した重要なポイントを、最後に改めて整理します。
人的資本経営の本質とは何か?
→人材をコストではなく「価値創造の資本」と捉え、投資を通じて中長期的な企業価値向上を目指す経営戦略そのものです。
成功の鍵は何か?
→経営戦略と人材戦略を完全に連動させ、客観的データに基づいて「あるべき姿」と「現状」のギャップから最重要課題を特定することです。
実践のポイントは何か?
→自社の戦略に合ったKPIを設定し、施策のPDCAを回しながら、そのプロセスと成果を価値創造の「物語」として社内外に語ることです。
私たちデロイト トーマツ ヒューマンリソースは、デロイト トーマツ グループの総合力を活かし、企業の経営課題解決に「人材」という側面から貢献しています。CxOや経営層の皆様と共に、企業価値向上に直結する人的資本経営の実現を数多く支援してまいりました。
人材採用支援を中心に、デロイト トーマツグループのソリューションを活用して貴社の人材課題の解決をいたします。お気軽にご相談ください。
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